カタコトニツイテ

頭のカタスミにあるコトバについて。ゆる~い本の感想と紹介をしています。

「鎌倉うずまき案内所/青山美智子」の感想と紹介

180.鎌倉うずまき案内所/青山美智子

 

「ただ俺は、流れ着いた先での、そのつどの全力が起こしてくれるミラクルを信じてるんだ。思いがけない展開で次の扉が開くのがおもしろいの。」(p.56)

 

令和元年から平成元年までの間を6年ずつ遡りながら、鎌倉を舞台に人生の岐路に立つ人々が新しい時代に向かって歩み始める、青山美智子連作短編集

 

出版社を辞めるか悩んでいる20代の会社員、YouTuberを目指す息子を改心させたい母親、付き合っている人と結婚するべきか葛藤する図書館司書の女性

 

今を生きる中で、何かを目指して歩いていたはずなのに、不意に道から逸れてしまったかのような感覚を抱く彼らは、鎌倉を訪れた際に、古ぼけた時計店の地下にある不思議な案内所に迷い込む。

 

そこには双子のおじいさんたちが所長である謎のアンモナイトと共に待っていて、迷い込んだ彼らに「はぐれましたか?」と優しく問いかける。

 

舞台となる鎌倉は変わらないのに、時代が違えば、人が異なれば、短い物語の中で様々な悩みや想いが交錯して、彼らの人生は迷路のようにあやふやになっていく。

 

そして、舞台となる鎌倉は変わらないからこそ、どれだけ時代を経ても、何気ない繋がりがふとした瞬間に偶然出会って起こる、思いもよらない展開に読者は驚かされる。

 

忙しなく過ぎる日々の中で「このままで良いんだろうか」「間違っているんじゃないか」と思い悩むことは誰にだってある。何かから「はぐれて」しまったとしても、気づかないふりをしてしまうことだってある。

 

そんな時に、ぐるぐると階段を下った先にある「鎌倉うずまき案内所」は、心を落ち着かせて歩いてきた道のりに思いを馳せながら、迷わず前を向いて歩いていくための道標のような存在になっていた。

 

この前、鎌倉を訪れることがあったから、小町通り江ノ島電鉄が走る風景の中を歩く登場人物たちを、少しだけ想像することができた。そういう楽しみも読書の醍醐味なのかもしれない。

 

では次回。

「浅草ルンタッタ/劇団ひとり」の感想と紹介

179.浅草ルンタッタ/劇団ひとり

 

お雪のピアノに合わせて舞台上で季節が過ぎていく。
劇場の天井の澄み切った青空から光が降り注ぐ。
音が光になり、光が歌になる。(p.113)

 

煌びやかな遊郭が立ち並ぶ吉原から少し離れた浅草六区で、行き場をなくした女性たちが集まる「燕屋」を中心に繰り広げられる人情劇を描いた、劇団ひとりの長編小説。

 

様々な理由でその身を娼婦へと移した女性たちが集まる「燕屋」の店の前に、ある日、一人の赤ん坊が捨てられているのを千代という女性が発見する。

 

かつて遊女として吉原で働いていた彼女は、過去に自らの子を亡くしており、周囲の反対を押し切って赤ん坊を育てることを決心する。

 

お雪と名付けられたその子どもは、温かく見守る「燕屋」の人々とともに賑やかな幸せに囲まれて成長していたが、店を利用していた一人の男の狼藉によって、彼女らの人生の歯車は大きく狂い始める。

 

明治から大正へと時代が移り変わり、物語の場面が登場人物の視点とともに転換していくと、まるで小説内に登場する芝居小屋の演劇のように、悲喜こもごもな出来事が積み重なり、がらっと人々の様相も変化していく。

 

そんな過酷な運命に翻弄されながらも、時代の節目を耐え抜いていく登場人物たちを、それでもかろうじて繋ぎ止めていたのは、浅草六区に広がる下町が独自に育んだ芸術や文化だったように思う。

 

まだ9歳だったお雪が目を輝かせながら観覧した「風見屋」の芝居、西洋の文化を取り入れながら独自の進化を遂げた「浅草オペラ」の舞台。

 

古くから残る浅草の文化に助けられながら、彼女らは順風満帆とは到底言えないような人生に希望を見出そうとする。

 

また、これほど哀しみにまみれた出来事が立て続けに起こる中でも、登場人物たちが決して無くさない、人情味あふれる優しさが一際、光っていた。

 

この物語を読んで、浅草という地には、過去から引き継がれている清濁入り混じった歴史が刻まれているのだと、改めて思い知らされる。

 

そして、そんな哀しみや寂しさも、全てを抱え込んで、でも最後には笑えるような、並々ならぬ底力を感じる浅草が、自分はきっと好きなのだ。

 

では次回。

「少女七竈と七人の可哀想な大人/桜庭一樹」の感想と紹介

178.少女七竈と七人の可哀想な大人/桜庭一樹

 

「ほんのすこぅしだったら」
むくむくがつぶやいた。誰にともなく。
「なんでも許せる気がしてしまう」(p.70)

 

旭川の街で生まれ育った少女は、美しく生まれてしまったがゆえに大人たちに振り回される人生の中で、自らの生きる道を見つけようとする、桜庭一樹の青春小説。

 

桜庭さんが女性作家だと、この本で初めて知った。「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」が代表的だけれど、タイトルにもどことなく惹かれる魅力が詰まっている気がする。

 

雪が降りしきる街、旭川に生まれた少女・七竈は絶世の美女として持て囃されることにうんざりとしながら、鉄道模型幼馴染の雪風だけを友として日々を過ごしていた。

 

しかし、そんな七竈を周りの大人たちは放っておかず、あの手この手で彼女の日常に入り込んでは、勝手な理想を押し付けてどこかへ行ってしまう。

 

悪い魔法に掛けられたかのように、狭い世界に押しつぶされそうになる登場人物たちは、優しい普遍な世界の存在を信じようとする。差し迫る現実を受け入れられずに。

 

それでも、しんしんと雪が降る街で、一際赤く、健気に揺れる七竈の実のように、何者にもなびかず、凛として現実と向き合う少女は、対比される大人たちよりずっと強く生きていた。

 

あと、小説の中で「柔らかい行き止まり」という言葉があったけれど、抗う気力が抜け落ちていくような、言いようのない無力感を抱かせるような例えで、とても印象的な表現だった。

 

この物語を読んでいると、時とともに無くなっていく何かが怖くなる。
もし「柔らかい行き止まり」が目の前に現れたなら、人は何を思うんだろうか。
少し、気になった。

 

では次回。

「ジヴェルニーの食卓/原田マハ」の感想と紹介

177.ジヴェルニーの食卓/原田マハ

 

先生はひと目ぼれをなさるんだそうです。窓辺の風景に。そこに佇む女性に。テーブルの上に置かれたオレンジに。花瓶から重たく頭を下げるあじさいに。(p.36)

 

近代美術の礎を築き上げた4人の芸術家の、紆余曲折した人生の中に存在したほんのひと時を鮮やかに描いた、原田マハ短編小説。

 

ジヴェルニーで色とりどりの花々が咲き乱れる庭に囲まれながら、青空の下で絵を描き続けたクロード・モネの生涯を、モネを支えた義理の娘であるブランシェの視点から描いた表題作を始め、4つの物語ではそれぞれの芸術家たちが魅せる素顔を垣間見ることができる。

 

アンリ・マティスと過ごした召使いの女性の幸せなひと時。
エドガー・ドガが求めた芸術を目の当たりにした女性画家の想い。
若きポール・セザンヌを支えたタンギー爺さんの半生。

 

彼らが歴史の中で過ごした日々。それは、読者でもなく、著者でもなく、芸術家たちのそばで見守っていた女性たちの温かな眼差しから、彼らが確かに生きたであろう姿が映し出される。

 

また、どの物語でも、芸術家たちが歩んできた軌跡が、色鮮やかな花々時代を象徴する絵画、そして彼らが過ごしたフランスの美しい街並みに彩られて、丁寧に綴られていた。

 

この物語は、歴史の一部となった偉人たちの記録でありながら、そういった歴史には刻まれていない、その時代を生きた人々の記憶を辿った先にある、芸術家たちのありふれた生活であったり、飾らない想いであったりするような気がする。

 

芸術に詳しいわけではないけれど、彼らが見てきた風景や景色、世界を閉じ込めた絵を自身の目で見てみたい、そう自然と思わせられるような作品だった。

 

では次回。

「本日は大安なり/辻村深月」の感想と紹介

176.本日は大安なり/辻村深月

 

十一月二十二日、日曜日、大安。大安は、六輝の中で何事においても全て良く、成功しないことはないとされる。だけど、大安はただそれだけでは実現しない。それを可能にするのは私たちだ。(p.222)

 

大安の日に結婚式を挙げる4組のカップが集うホテルで、ウェディングプランナーである主人公は式を成功へと導くために奮闘する、辻村深月の長編小説。

 

何をするにも縁起が良いと伝えられている大安の日。
ホテル・アールマティでは、4組のカップルを新郎新婦として華やかに祝福するべく、それぞれの結婚式の準備に追われていた。

 

しかし、その裏では美人双子姉妹が秘密の計画を企んでいたり新婦が身につけるはずのカチューシャが紛失したりあやしい男がホテル内を彷徨いていたりと、様々な思惑が式場内を飛び交っていた。

 

そんな事とはつゆ知らず、ウェディングプランナーである主人公の女性は、クレーマー気質の新婦にあれこれと文句をぶつけられながらも、結婚式が上手くいくようにとその行方を見守る。

 

結婚式が粛々と進んでいく中で、様々な人物たちの思惑はやがて、思わぬ事態が引き鉄となってあちこちに飛び火するかのように解き放たれることになる。

 

一日のみの煌びやかな式典。その日だけのため、多くの人々によって準備や労力がかけられることに、疑問を感じる人もいるのかもしれない。

 

ただ、そのたった一日を、人生の中で最も幸福で溢れる日にするために、ウェディングプランナーが、式場のスタッフが、そして新郎新婦たちが入念な打ち合わせを重ね、集ってくれる人々に幸せを分け与えられるような式をつくりあげる。

 

一人だけの力では実現しない、その場所に集った人々の思いが集結して初めて結婚式は完成するのだと、この小説を読んで改めて思い知らされた。

 

また、登場人物たちの人となり行動に至るまでの背景を、ストーリーに寄り添いながら丁寧に描いてくれるのが辻村さんの小説の好きなところ。

 

個人的に、大好きなお姉さんのために決意する
真空少年のひたむきな想いにグッとくる。

 

では次回。

「少女/湊かなえ」の感想と紹介

175.少女/湊かなえ

 

死は究極の罰ではない。ならば、死とは何だ。(p.118)

 

人が死ぬ瞬間を見たいと願った二人の少女は、互いにすれ違いながら、それぞれが思い描く「死」と言う存在に立ち向かっていく、湊かなえの長編小説。

 

親友の自殺を目撃したと語る転校生の告白を聞いた高校生の由紀敦子は、暗い過去の記憶を思い出しながら「死」について考えを巡らす。

 

その後、二人の少女は夏休みの間、死の瞬間を目撃するために「死」の匂いが色濃く漂う老人ホーム小児科病棟へ、互いには秘密にしながら訪れる。

 

そして、別々の場所で「死」に立ち会うため、躍起になっていた彼女たちは、やがて思いもよらぬ形で自らが隠していた気持ちを目の当たりにする。

 

この物語で描かれる少女たちの心情が透明で澄み切っているはずもなくて、奥底に満ちた妬みや嫉みさえも、物語が進むごとに洗いざらい暴かれていく。

 

しかし、そんな不純な心情から目を背けたくなるのと同じくらい、彼女たちが秘める純粋な気持ちを無視することはできなかった。悪意だけで人を塗り固めることはできないのだと、改めて思い知らされる。

 

また、湊さんの物語では有象無象のように思えた登場人物たちが、突然、輪郭をなして目の前に立ち塞がってくる。

 

そして、それは最後の最後で、そっと鳩尾に落とされた鉛玉のように、心の奥底に飲み込めない澱みを残しつつ、確実に物語の幕は落とされる。

 

イヤミスと呼ばれるジャンルが苦手だったけど、湊さんが作り上げた後をひく生々しい余韻は、おぞましくも残酷で、それでいて一抹の儚さを感じることができる。

 

では次回。

「神去なあなあ日常/三浦しをん」の感想と紹介

174.神去なあなあ日常/三浦しをん

 

「手入れもせんで放置するのが『自然』やない。うまくサイクルするよう手を貸して、いい状態の山を維持してこそ、『自然』が保たれるんや」(p.156)

 

都会で過ごしていた高校生の主人公は卒業と同時に、実家から遠く離れた山奥へと放り込まれ、森と共に生活する人々のもとで成長していく、三浦しをんの長編小説。

 

高校を卒業した主人公の少年は、将来のあてもなくフラフラと生きていこうと思っていた矢先に、両親の計らいによって三重県の山奥にある「神去村」へと送り出される。

 

しかし、森の奥にひっそりと佇む小さなその村は携帯の電波も通じない上に、都会の常識が何ひとつ通用しない別世界が広がっていた。

 

そんな場所に置き去りにされた主人公に課されたのが、木々を伐採して木材を生産しながら山を管理する林業と言う仕事。

 

「斜陽産業」と囁かれることも多い林業だが、この物語に登場する「なあなあ」が口癖の個性豊かな村人たちからは、そんな悲壮な空気感は微塵も感じない。

 

むしろ、村人たちの破天荒な仕事ぶりに翻弄されたり、村に残る独特な風習に振り回されたりする主人公の方が気の毒なぐらいだった。

 

ただ、主人公の目線に立ってみると、森での日常はどこまでも新鮮な経験に溢れていて、四季とともに移り変わっていく山の姿は多彩な一面を魅せてくれる。

 

そして、この作品を読んで最も印象的だったのは、自然と共生するということが、決して自然をそのままの形で放置するわけではないということ。

 

木を育てるために枝打ちをしたり、木の成長を妨げる隣の木を倒したり、人の手によって自然のサイクルを回すことで山の景観は保たれていて、なおかつ木々の美しさや儚さが色濃く残り続ける。

 

自然をありのままに受け入れるのではなく、ともに生きていくために森林に手を加える「神去村」の人々のような存在は、きっとこれからの社会においてもなくてはならない存在だと感じた。

 

では次回。