143.同志少女よ、敵を撃て/逢坂冬馬
「私の知る、誰かが…自分が何を経験したのか、自分は、なぜ戦ったのか、自分は、一体何を見て何を聞き、何を思い、何をしたのか…それを、ソ連人民の鼓舞のためではなく、自らの弁護のためでもなく、ただ伝えるためだけに話すことができれば…私の戦争は終わります」(p.101)
第二次世界大戦の最中、ソ連の狙撃兵として戦場を駆け回った少女たちの生き様を描く、第11回アガサ・クリスティー賞大賞を受賞した逢坂冬馬の長編小説。
ドイツ軍に襲われた故郷の村で全てを失った主人公の少女は、駆けつけた女性兵士によって女性狙撃兵を養成する訓練学校に連れて行かれる。
同じように家族や親しい人々を失った少女が集うその学校で、彼女たちは銃の撃ち方から戦場での極意に至るまで、狙撃兵として生き抜くための知識と技術を叩き込まれることになる。
その後、晴れて学校を卒業した彼女たちが送り込まれたのは、第二次世界大戦の独ソ戦において最激戦区となったスターリングラードの攻防戦であった。
史実に沿って忠実に描かれる戦況の中で、彼女たちは仲間の死を見届け、敵兵の命を自らの手で奪い、戦争によって引き起こされる「死」に慣らされていく。
獣を打つことに抵抗を抱いていた少女が、命乞いをする敵を無慈悲に撃ち抜いていく。
引き金を引くことを躊躇っていた少女が、殺した敵の人数を「スコア」として誇る。
歴史の中でしか知る由もない、怒り、憎しみ、悲哀、興奮にまみれた戦場を主人公とともに追体験しながら、戦争が生み出す悲劇を目の当たりにする。
しかし、この作品の中で命からがらに戦場を駆け回る彼女たちは、決してフィクションによって生まれた人物などではなくて、史実の中で確かに生きた女性狙撃兵たちの姿に他ならない。
ドイツとの友好を築くために外交官を目指していた主人公の少女が、ソ連の狙撃兵としてドイツ兵を何十人も撃ち殺したように、肥大する敵国への憎悪は戦場で相対する一人の人間に集約される。
国と人が当然のように同一視されていく思考。
そして、その思考が誰にでも起こり得たことが恐ろしかった。
また、この作品では、戦場において孤独な狙撃兵の生き方にも焦点を当ててている。少女たちが切磋琢磨しながら友情を育み、血生臭い戦場の中でも互いを思い合う姿を見て、ただただ生きてて欲しいと願うばかりだった。
女性狙撃兵たちが「敵」と見做したのは誰だったのか。
主人公の勇姿を、最後まで見届けてほしい。
では次回。