112.密やかな結晶/小川洋子
記憶はただ増えるだけじゃなくて、時間をかけながら移り変わってゆくからね。(p.127)
知っていたはずの物事の記憶が少しずつ消滅していく島で生きる人々の姿を描いた、小川洋子の長編小説。
その島で暮らす人々は、ある日突然一つの物の記憶が消滅する。
それは空を飛び交う「鳥」であったり、またある時は野に咲く「バラの花」であったり、日常で誰もが使ったことのある「切手」であったり。
島の住人たちはそうした記憶の消滅に取り乱すこともなく、淡々と事実を受け入れて新しい日常に適応していく。なぜか記憶を失わない、ごく少数の人々を除いて。
そんな不思議な世界で小説家として生きる主人公は、記憶を失っていくことを自然の摂理だと受け止める傍ら、記憶を失わない人々を連行して記憶狩りを行う秘密警察に対して不信感を抱いてく。
この物語においての「記憶」という存在。
それは、忘れてしまうものではなくて、消滅してしまうもの。
いつか思い出すこともない、不可逆的で取り戻すことができないもの。
現実で生きる自分たちは、忘れた物事でもいつか何かの拍子で頭の中に記憶の種が芽生えて、もう一度出くわすことがある。
でも、島で生きる彼らにとっては永遠の別れに等しい。
記憶が消滅してもありのままを受け入れる人々と、記憶を失っていない事を悟られないように心のうちに潜めて生きる人々。彼らにはもう消滅した物事に抱いた感情や思い出を共有することはできない。
この物語を読むと、形のない「記憶」という存在はどこまでも流動的で不確かなものなのだと改めて思わせられる。そして、劇中でのゆるやかに大切なものを失っていくような感覚が、ひっそりとこの世にも存在しているんじゃないかと、ふと怖くなる。
現在、未知なる現象によって不安定に揺らいでいる世の中だからこそ、物語をまっすぐに受けとめて読んでみて欲しいなとも思う。
それにしても小川洋子さんの情景描写の秀逸さにはいつも圧倒される。
特に「重苦しい地下室の中で、彼の手袋だけ平和な匂いがした」の文。良いなぁ。
では次回。